【インタビュー】タレント 元女子プロレスラー ライオネス飛鳥さん|自分が息を引き取る時に、いい人生だったと思える生き方をしたい
1980年にデビュー後、全日本ジュニア王座、全日本シングル王座を獲得するなど、女子プロレスラーとしての才能を開花させたライオネス飛鳥さん。
1984年に長与千種さんと結成したクラッシュギャルズは、一大ブームを巻き起こした。
女子プロレス界のレジェンドといって差し支えない彼女だが、病気により選手生命が危ぶまれ、マスコミに酷評された時代があったという。
女子プロレスラーになったきっかけは?
子供の頃、小児喘息・小児結核・小児肺炎を患い、治療に使用したステロイドの副作用で肥満児に。
小学4年生くらいになると体形のことを気にするようになって、人と接することが苦手になりました。
幼少の頃から身長が大きかったので、親戚から女子プロレスラーになれといわれることがあったのですが、女子プロレスラーは、身体が大きいというイメージで、肥満児の私にはあまりよい印象がありませんでした。
ところが、中学1年生の時、ビューティ・ペアを知り、特にジャッキー佐藤さんのファンになって、女子プロレスラーになりたいと思うようになったんです。
その時は身長163cmで80㎏くらいのぶよぶよの身体。
ジャッキー佐藤さんのようなシャープな身体を目指して、部活の運動にプラスして自主トレをしたり、食事を制限したりした結果、1箇月で20㎏減量。
高校1年生の冬にオーディションを受けて合格し、念願のプロレスラーになることが出来たのです。
後から聞いたところ、身長や体格に恵まれており、トップでの合格だったそうです。
それまでオーディションに落ちたらどうしようと、不安で泣いたこともあります。
そんな時、私がプロレスラーになることに大反対していた母が、「泣くのは自分を疑っていることと同じだよ」と声をかけてくれました。
その言葉に我に返り、涙を拭いて、自分を信じようと決めました。母のその言葉はいつの日にも私の心の支えになっています。
現役を引退後、カムバック。その際、体調を崩されたとか……
所属していた全日本女子プロレスには25歳前後で引退するという決まりがありました。
クラッシュギャルズでタッグを組んでいた長与千種が、先に引退を決め、私もその3箇月後、26歳で引退。
以後は芸能の仕事をやっていたのですが、いただく仕事といえば女ヤクザかスケバン役ばかり(笑)。
その前年度に千種が復帰していたので、まだまだ自分でもやれるんじゃないかなという至って簡単な理由で復帰しました。
ところが、復帰した年の冬にどんどん体重が減って、甲状腺機能が亢進するバセドウ病だということがわかりました。
いつも手に汗をかいて、動悸がして、不安感に襲われる……。
得意技だったジャイアントスイングが回せないという失態を、リング上で見せてしまった挙句に入院したのですが、スポーツ誌には「ライオネス飛鳥、ごみ同然」と書かれてしまいました。
それがすごくショックで、もうフェードアウトしようかとまで思い詰めました。
でも、ごみとまでいわれたまま消えてしまったら、昔のライオネス飛鳥に失礼ではないかと思い、病気を治して再復帰することを決意し、とにかく治療に専念しました。
バセドウ病が治ってリングに立った時、大きな歓声に包まれた時は、ファンの皆さんへの感謝の気持ちで胸が一杯になりましたね。
読者へメッセージをお願いします。
一番伝えたいのは、病気に負けて欲しくないということ。
誰しも投げ出したくなる時はあります。
でも、治そうと思っている間は、病気に負けていません。
私は、自分が息を引き取る時に、いい人生だったと思える生き方をしたい。
この先、大きな病になった時でも、病気に負けないぞ、それでもいい人生を過ごせているぞと思える自分でありたい。
私の大切な友達が病気に悩んでいたら、そう伝えたいですね。
ライオネス飛鳥オフィシャルブログ
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