友人の生温かい頬にキスして見送ってあげた時、
僕はレースでは死なないと決めたんです 

片山敬済氏は、オートバイの世界最速を競うロードレース世界選手権において、日本出身のライダーとして初めてシーズン優勝(350㏄クラス)を果たした。レース前、集中力を高めるために禅を行うなど、その速さと相まって、オリエンタル・ミステリーと呼ばれていた片山氏だが、危険と隣合わせのスピードの世界でどのように生き延び、勝利してきたのかについて、お話を聞いた。

大きな事故を経験されたとか?

一番大きな怪我をしたのは1983年、イタリアのイモラでの最終戦。

その年はトップカテゴリーである500㏄クラスで何度も表彰台に立ち、翌年は世界王者が狙えそうなくらい絶好調を維持していました。

練習中、高速コーナーを時速240㎞で走行していて、前輪が滑って転倒。そこにいた誰もが最悪の事態を覚悟するような大事故でした。

当時はガードレールに麦藁の緩衝材が置いてあるくらいで、全く衝撃を軽減出来ませんでした。頭からぶつかれば、間違いなく即死。

そこで、転倒した直後、150mくらい路上を滑りながら、何とか身体の向きを変えたんです。

ぶつかる瞬間、緩衝材を蹴って、衝撃を和らげようとしましたが、足からの衝撃は一気に足首から背骨まで上がって来て……足首と背骨が潰れるクシュクシュという嫌な音が全身に響いて、とてつもない激痛が走りました。

これは一生車椅子かなと思いながらも、10秒もしないうちに両足首が動くかどうかを試してみたら感覚がありました。

そこで、普段からやっていた瞑想で緊張を解しました。

救急車が来るまでの数分で、筋肉が緩んでいくにつれて、痛みも楽になっていきました。

骨折だけで神経は大丈夫だと確信しましたから、担架の上ではもう次のレースのことをイメージしていました。

呑気というか、前向きというか……(笑)。

治療は日本で受けたいので、無理をいって帰国しました。 

結局、脊椎2箇所の圧迫骨折と両足首4本の骨折。

背骨は手術が出来ないので牽引。両足首は手術をしましたが、術後1週間もしない間にリハビリ開始。1箇月後にCMの撮影が入っていて、どうしてもバイクに跨る必要がありました。

事故の後遺症はありましたか?

事故する前よりもバイクに乗るのが上手くなったんじゃないでしょうか。

「ペガサスの走り」と自画自賛したくらい。

時速300㎞の世界がスローモーションのように感じる人馬一体の境地でした。開眼、覚醒というのはあんな次元を指すのでしょう。

事故の翌年は治療のために休養し、その翌年のシーズン途中には引退したのですが、やり尽くしたという思いがあったのかもしれません。

死と隣り合わせの世界では悲しい別れがあったのでは?

毎年、何人もの友人が亡くなっていきました。

同じレースで前を走っているライダーが転倒し、そのレースで自分が優勝。

後になって死んだと聞かされたことがあります。その足で病院に駆けつけると、まだ友人の身体が生温かい。

やがて36度の体温が20度台に下がっていく ―― その生温かい頬にキスして見送ってあげたんだけれども……その感触や温度が今でも唇に残っています。

その時、僕はレースでは死なないと決めたんです。

九死に一生を得て、死生観は変わりましたか?

事故の1箇月後には撮影でバイクに乗ったけれども、その後の1箇月間はベッドで天井を眺める生活。

いい意味で人生を考える時間になりました。

人生は、生まれた瞬間に始まって、限りなく直線的に死に向かっています。

それを理解出来た時に、死をあまり恐れる必要はなくて、ただ今を一生懸命に生きればいいのだと気が付きました。

ある意味、覚悟が出来ました。心の準備をさせてもらえた気がします。

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