日本初のプロラクロス選手である山田幸代さんは、2005年に日本代表としてワールドカップを戦った後に、強豪国である豪州でプレー。2017年には豪州の代表に選出され、世界大会で銅メダルを獲得している。今月のインタビューはそんな山田さんを訪ね、選手として大きな分岐点となった出来事などについてお話を伺った。

私自身が世界最高の景色を見て、その景色の一員になって……それを日本に持ち帰るしかない

ラクロスをはじめたきっかけは?

  ずっとバスケットボールをやってきて、大学に入ってから、ラクロスをはじめました。 実は大学ではバスケットボールは止めようと思っていたのですが、国体の選手に呼ばれたので、その体力作りの一環でした。

 国体の練習は夜、ラクロスの練習は朝で両立出来たんです。国体が終わった秋に、本格的にラクロスに取り組むようになりました。

スティックでボールを扱うなど、技術が求められる競技だと思いますが……。

  春から頑張っていた同僚に比べれば、半年遅れのスタート。全然出来ないことが多かったのですが、それが悔しくて努力しているうちに嵌っていきました。

 ただ、バスケットボールも同じようにフィールドを走り回る球技ですから、フィジカルな部分とか、視野のとり方とか の経験が活かせた部分はありました。

それが日本代表、そして強豪国である豪州代表に選ばれるまでになりました。

  課題を見つけて解決していけば、結果に表れます。それが楽しいというか、そのフィードバックの速さが私の身上だと思っていますが、日本代表まではその繰り返しで正直、とんとん拍子で来られました。

 ところが、2005年のワールドカップで世界の壁というか、自分の限界を思い知らされたんです。思えばこの時が転機でしたね。だから、海外に出て世界のレベルに身を置き、挑んでみようと思ったんです。

具体的にどんなところで世界の壁を感じられたのでしょうか? 

 ワールドカップでは5位にはなりましたが、優勝した豪州代表など上位のチームとの差は歴然としていました。100%の力を出さない練習試合でも大敗させられるんですが、対戦相手の目を見ると、明らかに本気じゃないってわかるんです。

 胸を貸してやっているというか、遊ばれている感じ。それなら本気の目にさせてみようと思いました。それには自分が世界のレベルに成長しないといけない。世界という景色を見る。そしてその中に自分がいる──それを経験したくて海外に行ったんです。

ラクロスで海外に行くというのは、思い切った決断でしたね。

  応援してくださる企業さんがあって実現したのですが、2007年にプロ宣言。日本ラクロス初のプロ選手になりました。そして、豪州に渡りました。

環境を変えて、いろいろ苦労されたのでは?

  当然、国内よりもレベルは高いですが、実力の違いを感じる以前に、実力を発揮させてもらえない。ラクロスはチーム競技ですから、チームメイトとのコミュニケーションが重要です。

 私は英語が出来なかったし、まず存在自体をなかなか認めてもらえない。そういう雰囲気的なことだけじゃなくて試合の中でパスがもらえなかったりするわけです。だから、こぼれたボールを必死で拾って、何とか自分をアピールするしかありませんでした。

よく心が折れませんでしたね。

 1年目はそんな感じ。幸運だったのは2年契約だったのでまだ頑張れたこと。2年目に州代表のサブで呼ばれたのですが、なかなかチームに溶け込めない中、親友のケイトがとことん私の話を聞いてくれたんです。

 チームメイトを全員外に出して、カーテンも鍵も閉めてふたりきり。英語はあまり出来ないので電子辞書を片手に話をしたんです。こんなことをやりたいけど言葉が通じないから伝わらないとか、どうしたら皆の輪に入って、結果が出せるのかとか……気がついたら号泣しながら、3~4時間が経過していました。

 実は、ケイトはドイツ人とのハーフで、豪州育ちだから独語はわからなくて、ドイツ留学の際に本当に苦労したんだとか。同じような立場の私を見かねて助けてくれたのですが、以来、彼女のお陰もあってはチームの輪に入っていけるようになったんです。

ケイトは恩人ですね。

  ケイトがいなかったら2年で豪州でのプレーを諦めていたかもしれません。ケイトは、自分の気持ちをもっと伝えなさいといってくれました。英語が拙くても、”I want to ~"でいいんだと。だって、 言葉が上手く通じなくても、気持ちを伝えられたら親友にはなれるのだから 。

 日本では相手の気持ちを察してあげることを求められますよね。でも、海外では自分から意思表示しないと駄目。私はチームメイトが理解してくれるのを、パスを出してくれるのを待っていたんです。

そんな挫折からのスタートでしたが、やがては豪州代表に選ばれましたね。

  豪州での2年目も結果が出たとまではいえませんでしたが、スポンサーさんにお願いをして 、翌年以降も挑戦させてもらうことが出来ました。その中で徐々に結果が出せるようになったのですが、豪州代表を目指したのは目標ではなくて、あくまでも通過点というか手段です。

世界屈指の強豪国の代表が通過点?

  私はラクロスを始めて夢が出来ました。保母志望だったんですがラクロス選手が将来の夢だという子供が出てきたら嬉しいなって。ラクロスを野球やサッカーのように子供が憧れるスポーツにしたいと思いました。

 そのためにはまずラクロスで食べていけるプロ選手が出てくること、そして海外で腕を磨いて、日本のラクロスのレベルを上げていくことが必要です。

 でも、日本代表では豪州を始め世界の強豪国の代表を本気に目にさせられませんでした。私自身が世界最高の景色を見て、その景色の一員になって……それを日本に持ち帰るしかないと思ったんです。

2007年に海外に渡り、2017年に豪州代表に選ばれました。

  最初に豪州代表の選考に残ったのは2013年。代表選出は18人と決まっていて 、最後に20人を18人に絞る時に落とされたんです。理由を聞いたところ、少しレベルが高いくらいなら、言葉の問題がなくて若い豪州の子を選ぶといわれました。それを聞いてすっきりしたんです。

 自分は今まで監督に選んでもらおうと受け身の姿勢でした。そうじゃなくて選ばせるくらいに圧倒的な存在になればいいんだと気が付いたんです。

 そこから切りかえて2017年の代表を目指しました。本当にやりきりました。仮に選ばれなくても悔いはないくらいに。大会の2週間前に結構な怪我をしたのですが、それでも諦めずに治療に励んで、100%とはいえないまでも95%くらいは回復して……最終的には代表に選ばれた、いや「選ばせた」のです 。

日本代表としてワールドカップに出場した時と比べて、何か感じられたことは?

  2005年の日本代表の時、世界の壁を思い知らされたり、自分自身が不調になってスタメン落ちして、どこかいじけたりしました。自分のことしか考えられなかったんです。

 2017年は1試合目からスタメンで出たんですが、どう考えてもベストには程遠い状態。走り出しは遅いし、反応も悪い。だから、他の選手をスタメンにしてもらうよう、監督に直訴したんです。

 スタメンじゃなくても出来ることはありました。大きな目で見れば、そのほうがチームが勝つための近道だと思えたのです。結果的に代表として臨んだ2つ目の世界大会で、銅メダルを獲得出来ましたが、12年経って、成長した自分を見られたのは、もうひとつの大きな勲章だと思っています。

豪州代表を振り返って感じられたことは?

  ラクロスではどこの国の代表になるか、生涯で一度だけ変更が出来ます。いいかえれば豪州代表になったらもう日本代表には戻れないわけです 。大きな目標があったからこそひとつの通過点でしかないと思い、決断しました。とはいえ、日本の敵に回ったとか、批判されることもありました。日本のラクロスの中で理解してもらえず、果たして自分のやってきたことは正しかったのかと悩んだ時期もあります。

大きな目標があるから頑張れるのでしょうか?

 私の父親は口数の少ないほうだと思うのですが、 自分が理解されないと愚痴った時、何のためにやっているんだといわれたんです。自分のためにやっていることなら見返りを求めるなと。日本のラクロスのために頑張っているといいながら、どこかで見返りを求めていたんでしょうね。そんなふうに悩んだ時期はありましたが、最終的には自分の夢がぶれなければいいんだと思えるようになりました。

 ラクロス界の後世に名を遺すことができたら、またラクロスがメジャーなスポーツとなるための少しでも礎になれたら……それ以上のことはありません。

プロラクロスプレイヤー 山田幸代 オフィシャルウェブサイト

https://sachiyoyamada.com

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